
1970年代に欧州サッカー界を席巻した「トータルフットボール」の創始者として、獲得したタイトルは多くはないにもかかわらず、FIFAから「20世紀最優秀監督」に選出された名監督。「トータルフットボール」はすべてのフィールドプレーヤーがプレーに応じてポジションを変更する流動的なポジショニング、素早いプレスとオフサイドトラップの多用など、サッカーの常識を180度変えた画期的な戦術だった。そのミケルスの理念は愛弟子クライフに引き継がれ、ヨーロッパのサッカー界を席捲することになる。1999年、2005年、死去。享年77歳。
代表的フォーメーション
オランダ代表 1974年(Wカップ)
選手歴
FWとして地元のアヤックスでプレー。14年間で257試合に出場し、得意のヘディングを武器に120ゴールを挙げた。
監督歴
現役引退後、地元のアマチュアクラブで監督をやっていたが、1965年にプロ指導者ライセンスを取得し、古巣アヤックスの監督に就任。当時、降格の危機に瀕していたクラブを立て直し、翌年にはリーグ優勝に導いた。相手選手にプレーの「隙」を与えないプレッシング、パスコースの「選択肢」を広げる巧みなポジションチェンジ、そしてゲームを「支配」するリズムの構築。後に新聞記者が名付けた「トータルフットボール」の骨幹はこの頃に出来上がった。アヤックスはその後も破竹の快進撃を続け、1971年にはチャンピオンズカップ優勝を果たす。
1971/72シーズンよりバルセロナ監督に就任。ここでも独自の理論と強烈な存在感でチームを牽引。1973/74シーズンにはクラブを14シーズンぶりのリーグ優勝に導く。同年、バルセロナ監督と兼任でオランダ代表の監督に就任。チームはクライフやニースケンス等、ほとんどミケルスが直接指導した選手達で構成され、すでに完成されたチームだった。目まぐるしいポジションチェンジと正確無比のパスワークで他を圧倒、準決勝まで14得点1失点(オウンゴールによるもの)という完璧な内容で勝ち進んだ。しかし決勝の西ドイツ戦ではチームの心臓であるクライフが西ドイツのDFフォクツの執拗なマークに遭い、リズムが作れないまま1-2で敗退した。結果は準優勝に終わったものの、オランダ代表の革新的な戦術は、世界中のサッカーシーンにセンセーションを巻き起こした。
1988年にはユーロにオランダ代表を率いて出場。ファン・バステン、フリット、ライカールト、クーマンといった層々たるタレントに恵まれ、見事優勝を勝ち取った。
その後、1fcケルンの監督を経て、1992年のユーロでも再びオランダ代表を率いたが、準決勝でデンマークにPK戦で敗れベスト4に留まる。この敗戦を最後に監督業から引退した。
1965/66 | アヤックス |
1966/67 | アヤックス |
1967/68 | アヤックス |
1968/69 | アヤックス |
1969/70 | アヤックス |
1970/71 | アヤックス |
1971/72 |
バルセロナ リーグ3位 |
1972/73 |
バルセロナ リーグ2位 |
1973/74 |
バルセロナ リーグ優勝 オランダ代表 Wカップ準優勝 |
1974/75 |
バルセロナ リーグ3位 |
1975/76 |
アヤックス リーグ3位 |
1976/77 |
バルセロナ リーグ2位 |
1977/78 |
バルセロナ リーグ2位 |
1978/79 | |
1979/80 | ロサンゼルスアズテックス(アメリカ) |
1980/81 |
1FCケルン(ドイツ) リーグ8位 |
1981/82 |
1FCケルン(ドイツ) リーグ2位 |
1982/83 |
1FCケルン(ドイツ) リーグ6位 |
1983/84 | |
1984/85 | オランダ代表 |
1985/86 | |
1986/87 | オランダ代表 |
1987/88 |
オランダ代表 ユーロ優勝 |
1988/89 |
レバークーゼン(ドイツ) リーグ8位 |
1989/90 |
レバークーゼン(ドイツ) リーグ5位 |
1990/91 | オランダ代表 |
1991/92 |
オランダ代表 ユーロベスト4 |
1992/93 |
ミケルス語録
ミケルスについて
by シャーク・スワルト(元アヤックス、オランダ代表のウインガー)
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