ハンス・オフト

Johan Ooft 1947~

オランダ人で父親はアフリカ系黒人の移民。日本代表監督として初のアジアカップ優勝を果たし、日本のサッカーをレベルアップさせた。しかし、続くワールドカップ予選ではドーハの悲劇で出場を逃がした。日本代表監督時代には、戦術を理解させるために「スリーラインをコンパクトに保ち、選手間の距離を縮める(スモールフィールド)」「ボール保持者の周りでトライアングルを作りながらパスを回す」「コーチングやアイコンタクトで意思疎通を行う」といった約束事を選手たちに教えた。その後、ジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズの監督を歴任。Jリーグ通算100勝の記録は2012年にネルシーニョに抜かれるまで、Jリーグの外国人監督として最多であった。2013年、日本代表やJリーグ各クラブでの監督を務めるなど日本サッカー発展に功績があった人物として、日本サッカー殿堂表彰が決定した。

選手歴

1964年、17歳でフェイエノールトと契約。フェイエノールトではFWとしてプレー。28歳の時に怪我で引退。

監督歴

1976年、オランダユース代表コーチに就任。1982年、日本サッカーリーグ2部のヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)2ヶ月間の短期コーチとして招聘され、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。1984年、日本サッカーリーグ2部のマツダ(現サンフレッチェ広島)コーチに就任。2年目の1985年に1部昇格に導くと、1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導いた。しかし1987/88シーズンに2部に降格し辞任。

その後、オランダへ帰国しユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていたが、1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した。同年夏にダイナスティカップ優勝、秋のアジアカップでは優勝に導き、日本サッカー界初となるビッグタイトルをもたらした。1993年に行われたワールドカップアメリカ大会アジア最終予選では国民の高い関心を呼び、本大会出場にあと一歩のところまで迫りつつもドーハの悲劇により出場を逃がす。

1994年からはJリーグのジュビロ磐田監督に就任、チームを強豪に育てた。1998年に京都パープルサンガ監督に就任するも結果を残せず退任。、2002年に浦和レッズ監督に就任。ナビスコカップ優勝を果たす。その後はスペインに移住。現場の第一線からは離れていたが、2008年9月、J2降格の危機に陥っていたジュビロ磐田の監督に就任。降格圏を抜けるまでには行かず、シーズン16位でベガルタ仙台との入れ替え戦に勝利し、J1残留を果たした。

1987 マツダ(日本)
1988 マツダ(日本)
1989
1990
1991
1992 日本代表
アジアカップ優勝
1993 日本代表
Wカップ予選敗退
1994 ジュビロ磐田(日本)
リーグ8位
1995 ジュビロ磐田(日本)
リーグ6位
1996 ジュビロ磐田(日本)
リーグ4位
1997
1998 京都パープルサンガ(日本)
前期15位 途中解任
1999
2000
2001
2002 浦和レッズ(日本)
リーグ11位
2003 浦和レッズ(日本)
リーグ6位
2004
2005
2006
2007
2008 浦和レッズ(日本)
途中就任 リーグ16位

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